サントリー芸術財団コンサート
作曲家の個展2011「三輪眞弘」
2011年10月2日サントリーホール
プレコンサート・トーク 聞き手:中ザワヒデキ(美術家)
三輪眞弘「村松ギヤ・エンジンによるボレロ」(2003) 指揮:野平一郎 管弦楽:東京都交響楽団
三輪眞弘「愛の賛歌 4ビット・ガムラン」(東日本初演) ガムランアンサンブル:マルガサリ
三輪眞弘「永遠の光・・」オーケストラとCDプレーヤーのための(2011) 指揮:野平一郎 管弦楽:東京都交響楽団 (サントリー芸術財団委嘱作品・世界初演)
コンサートという制度は恐らくは或る種の「音楽」の不可分の一部を為していて、その中で演奏される作品は決して演奏が行われる場と無縁ではありえない。 同じことはそうした制度のやはり一部である聴き手についても言えて、ある特定の日付を持った一定の時間を贈与すること、コンサート会場を訪れるための 空間的な移動といった側面は、コンサートのいわば「額縁」(パレルゴン)のようなものに過ぎないとは言いながら、そうした側面を除いてはコンサートは実現しない。 聴き手は自分固有の文脈において、或る種の賭けを行っているのだ、というのが大袈裟に聞こえるかも知れないが、特に最近の私の立たされている状況を 偽りなく、端的に表現していることになるだろう。
例えばこの10月2日のコンサートの2週間前の9月18日には栃木県立美術館で、やはり三輪さんの作品ばかりからなる個展形式の室内楽のコンサートが 行われていて、私はこれを聴くつもりでいたのだが、9月に入ってからの身辺の慌しさやらトラブルの対応やらに忙殺され、心理的にまいってしまったために、 少なからぬ空間的な移動とほぼ1日の時間の贈与を強いられるこのコンサートを断念せざるを得ず、その結果、未だ実演に接することが出来ずにいる 弦楽六重奏のための369 Harmonia IIの再演に接することができなかった。 だが、このときの演奏はいわば「奇跡的」なものであったとのことで、結果として私はその「奇跡」に立ち会う機会を永久に喪ったことになる。 勿論その奇跡を可能にした「優れた演奏」は録音により記録されうるだろうし、それを後から繰り返し聴くことで、つまり三輪さんの言う「録楽」においても 素晴らしいリアリゼーションに接することはできるだろうし、場合によっては「奇跡」に遭遇することだってあるかも知れない。だがそれは日付と場所を持った あの「奇跡」とは別のものなのだ。
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更に1週間前の9月11日は東日本大震災から6ヶ月、そしてあの9.11から10年という節目の日だった。こうした日付に纏わる様々な文脈も人それぞれであろう。 あるコンサートがそうした出来事と持つ関係も、そこに関与する人間一人ひとりの文脈に応じて様々であろう。勿論、関与のあり方は均一ではあり得ず、 とりわけ今回は三輪さんの「個展」であれば、三輪さんのそれがコンサートの性格に強く反映されることになるのは明らかなのだが、主催者、演奏者は勿論、 偶々コンサートホールに集まっただけにみえる聴き手の側のそれも、決して無関係ではありえない。例えばコンサートにあえて訪れないことが、ある聴き手自身にとって、 あるいはその聴き手を知る人にとって少なからぬ意味があることもあるだろう。私はといえば、上述の節目に対して無頓着でいることができない文脈を抱えていて、 特に東日本大震災以降は音楽の創作や演奏、あるいはより広く音楽やら音楽家を巡る言説に対する自分の立ち位置が、それ以前と同じでは最早ないことを 否でも認識せざるをえない事態に、この半年の間、幾度となく直面してきた。
そうした私にとって、このコンサートは「中部電力芸術宣言」を公開し、そしてこの「個展」のための委嘱に、その宣言に即した作品で応える作曲家の「個展」 である。そうした出来事と作品の関係は(無関係であるべきだという立場も含めて)様々だし、今回の場合のようにプログラムノートによって関係が作者により 語られ、作品の題名によって関係が示唆され、だが作品は、例えば歌われる歌詞によって、あるいは或る種の音楽語法によって出来事が「描写」されたり、 出来事に対する感情的な反応が「表現」されたりすることはないといったあり方に対する賛否はあるだろう。そしてそうした関係の様相とは独立に、演奏の結果 実現される狭義の「音楽」の出来不出来を(あるいはそれ「のみ」を)論じることもできるだろうし、逆にそうした関係を踏まえた上で、やはり結果としての狭義の 「音楽」が「成功」しているかどうかを美学的な価値基準をもって評価することもできるだろう。だが、率直に言って今の私には、そうしたことをしたいとは思えない。 寧ろここではそうした価値判断は控えて、自分がそれをどのように受け止めたかだけを記録しておこうと思う。
それが普遍的な価値を持つかどうかは少なくとも私にとっては副次的なことだし、逆に自分が受け止めたものをこのように改めて確認してみれば、 それが自分にとって持つ価値は疑問の余地なく明らかなものに思われる。それが「音楽」を聴いていることになっていない、作品の、あるいは演奏会の 「批評」になっていないとしても、私は一向に構わない。そもそも私の接し方は美学的な価値判断とは無縁だし、批評などに興味はないし、仮にそうしたくても それをするだけの素養が私にはないのは明らかであってみれば、それを試みることは単なる越権行為だろう。 それが「良い作品」であるかを評価するだけの能力を自分が持っていないことを認めた上で、些か乱暴な言い方をすれば、実を言えばそうした評価などどうでも 良いと感じているとしたら、何も言うべきことは残されておらず、私は沈黙すべきなのかも知れないとも思う。けれどもそうした聴き手があのコンサートホールに 居たという事実は残るし、私は自分が受け止めたものを自分の中にしまい込んでしまうことに抵抗を感じている。否、自分の中でそれが沈着し、変容し、 あるいは一部は風化しといった作用が起き、だがそれが或る瞬間に跡形もなく揮発し、消え去ってしまうことに抵抗を感じている。ヘーゲル的な立場からすれば 主観的な経験の質などに価値はないのかも知れないが、その一方で全く主観的な経験など抽象に過ぎない。私が受け止めたもの、私の中に刻印された ものが、媒体に過ぎない私よりも価値のあるものであるとしたら、私にできることは、それが如何に稚拙な仕方であってもそれをこのようにして別の媒体に 変換して記録しておくことだけなのだ。
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プログラム構成は、最初に30分程度の中ザワヒデキさんが聞き手の三輪さんのプレトークがあり、その後3曲が舞台のレイアウト変更のための 時間でもある2回の休憩時間を挟んで演奏される。真ん中にガムランアンサンブルの作品を挟む構成なので、レイアウト変更のコストは小さくない。 結局ガムランアンサンブルの演奏に際しては、椅子等をすべて舞台から運び去るのではなく、舞台後方に寄せて手前にスペースを作って、 そのスペースの床に直に楽器を置き、座布団のような敷物に座って奏者が演奏し、その同じ平面で舞踊も行われるかたちとなった。 演奏時間は正確に測った訳ではないが、それぞれ約25分、約20分、約40分といったところか。
プレトークについて書くべきことはほとんどない。それは三輪さんのこれまでの活動についての文脈(の一部)を確認するという点ではそれなりに 意味のある対話ではあったろうが、新作に関する部分も含めて、この個展のための作成されたパンフレットをはじめとする公刊されている文献などによって 何らかのかたちで追跡できる事柄に終始していて、初めて明らかになった事柄といったようなものはなかったように思われるので内容は割愛する。 この催しのためにサントリーホールを訪れたのがどういう人たちなのかを推測するに、一方ではそうした文脈のいわば内側にいる(つまり程度の差はあれ、 中ザワヒデキさんと似た立場にいる)人達がいて、もう一方ではそうした文脈には関心がないし、そうした文脈への参照自体に懐疑的ではあるけれど 現代音楽をいわゆるクラシック音楽のように消費する立場にあって、音楽を聴くことに関しては非常に経験もあり、批評力もあるであろう聴き手がいて、 それら以外の人達はどれくらいいたのだろうか、と思わないでもないし、そうした状況で、あのようなプレトークがどのような意味があるのか、 疑問に感じた人がいたとしても不思議はない。
もっとも、これまでに接してきた三輪さんに関連した様々な催しの経験からすれば、 文脈の共有というのは実際には相当に覚束無いものである(単に制度的に場を共有しているに過ぎないのではという疑念を抱かせるケースもなくは なかった)ようだから、文脈づけが全く無意味だとは思わない。まずもってコンサートという制度が一定数の聴き手を集めることを前提とし、更に今回の場合には 「作曲家の個展」という企画の一部なのだから、趣旨からいってもこれは必要なことだと思われる。不要だと判断した人間は聞かなければ良いのだし、 もしかしたら(ガイドつきの美術館巡りが当たり前で、一般的なクラシックのコンサートでも解説がつくことが寧ろ普通になりつつあるかの見える昨今) プレトークがあるなら聴いてみようかという人だっているに違いない。能狂言の公演での解説のことを思えば、無くてももちろん構わないけれど、 あればそれなりに参考になるケースも我が身に照らしてなくはないのだ。
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芥川作曲賞受賞作である「村松ギヤエンジンによるボレロ」は当然のことながら何回目かの再演であるが、私自身は録音で接したことはあっても 実演に接するのは初めて。録音ですらこの作品が三輪さんの作品の中でもメルクマールとなるようなポジションを占めることは明らかなのだが、 実演に接してもその印象は変わらない。録音で聴いた場合には、ややもすれば途中で行き先を見失い、作品の構造において自分が今どこに いるのかがわからなくなって、冗長に感じられる瞬間があるかもしれなくとも、こうしてコンサートホールで実演に接すれば、長さは全く気にならない。 各声部が別々に昇降を繰り返す弦のパートは三輪さんの作品においてしばしばそうであるように12音平均律とは異なるスケールに基づいていて、 ここではオクターブの分割を通常の12ではなく18にしているの(つまりメシアンのM.T.L.でいけば第1番にあたる全音音階の各音を3分割したもの)だが、 例えばクラスターのようなノイズを発することもある20世紀以降の管弦楽において、それは新規な音響という感じはなく、それでいてこうした音楽は 「ありえたかもしれない」にも関わらず、これまでは想像上のものでしかなかったという印象を強くする。(ちなみに最近のフォルマント兄弟名義での 作品で用いられ、今回初演された「永遠の光・・」は(少なくとも作品を支えるシステムないし、創作のプロセスのあるフェーズにおいては)17音平均律を 使用していて、「ボレロ」とは異なるシステムに基づいている。この差異について例えば「逆シミュレーション音楽」と「新調性主義」というそれぞれの作品の ポジションの違いと関連付けて考えてみることができるだろうが、ここではその余裕がない。)
人によってはどうでもいいもの、はっきりと 音楽「外」のものである架空の由来のその「架空」の部分を、実現された音響は裏切らないばかりか、説得力をもってリアライズする。要するに バーチャルなものを実現にもたらすという音楽が本来持っている力がここでは極めて正確に(そう、あえてこの表現を使いたい)行使されていると いう印象を私は強く持った。これは一般的な意味での「現代音楽」ではなく、従ってその価値基準から言えば「良く書けた」音楽ではないから、 こうした音楽は不要だ、否、端的にこれはそもそも音楽ではないといった拒絶は想像されるし、その基準の内部では不当ではないだろうが、 結局のところ私が今、コンサートホールにわざわざ出向いて実演に接する意義を見出すのは、まさにこの「音楽」なのだ、という認識は揺るがない。 演奏は、ここで媒体として用いられているヨーロッパの音楽の伝統における通常の意味合いでの情緒も身体的な反応も拒絶したかに見えて、 異なる仕方での身体性の再組織を、そして(結局のところ人間が演奏し、聴く以上)そこに不可避的に随伴する情態を浮かび上がらせることに 成功していたように私には聴こえた。
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2曲目のガムランアンサンブルのための「愛の賛歌」を聴くのは2度目であるが、これについては(そのようにプログラムされているわけだから) 確信犯的に意図された側面があったのではあろうが、ヨーロッパの管弦楽のためのコンサートホールでの演奏という異化効果が、私にとっては 作品の印象を薄める方向に働いたように感じられる。前回はほぼ50分近くかかった演奏時間も今回は20分程度だったが、これもいわば 音楽の持つ時間性が充分に展開される前に収束してしまったような印象に繋がったのかも知れない。実際には舞楽「算命楽」の上演に 接したのは同じくヨーロッパの管弦楽のためのコンサートホールであるタケミツメモリアルであったが、その時には必ずしもそれが気にならなかった のは、雅楽とガムランの音響の特性の違いなのか。
もう一つ大きく印象が異なったのは音楽の構造を規定する、だが一般には背景であり地の 部分ということになるのであろうグンデルとゴンのパートと、前景の図となるサロンおよび歌、弦楽器の音響バランスで、これは前回聴いたのがほぼ真横からで あることがもたらした偶然であり、今回聴いたバランスが意図されたものなのかも知れないが、そうであったとしたら寧ろ一層、私にとっては 違和感のあるものであった。要するに総じて単調なフレーズを繰り返すほかない前景となるパートが出過ぎて、音楽の構造が本来持っている 遷移の豊かさが耳からは充分に感じ取れなかったように思える。私はガムランの奏法については知らないし、その伝統の中での歌唱法の 知識もない、舞踊についても良くは知らない(寧ろガムランならジャワのではなく、バリのガムランの方が多少馴染みがあるくらいである)。 その上であえて表面的な印象を述べれば、舞踊は(これは前回も感じたことだが)、2人の間の技術的なアンバランスがあるのではと 感じられる程度に一方の舞い方に様式的な安定感の欠如を感じたこと、それから歌唱についても(これは歌詞が日本語であるということが もしかしたら関係しているのかも知れないが)やはり何か様式的な緊張を欠いたものに感じられた点も大きい。
これは別にヨーロッパの音楽の奏法や歌唱法、あるは舞踊のスタンダードと比較してということではなく、 多少なりとも慣れ親しんでいる例を挙げれば能狂言であるとか文楽におけるそれらの優れた演奏から感じられる確固たる様式とそれがもたらす 緊張(というとリラックスした雰囲気を排除しているようにとられるかも知れないがそうではなくて、リラックスしている場合にも存在していなくては ならない内的な強度のようなもの)を思い浮かべても、散漫な印象を抱いてしまったということである。特に演奏の終りの部分については それが何らかの事故の影響ではないかと思わずにはいられないような違和感を抱かずにはいられなかった。
全体として、それ自体ヨーロッパの 伝統に属する「現代音楽」のコンサートを異化するという狙いは理解できるが、(例えば「算命楽」ではそれが起きたようには)異化の 齎す強度を感じ取ることができなかったのは残念である。時間的制約から困難だとは思うが、寧ろこうした場合こそ演奏時間の長い バージョンを演奏することによって聴き手の知覚を馴化させるための時間をかけた方が良かったように私には感じられる。 プログラムでは日本語のタイトルは「愛の賛歌」となっているが、英語のタイトルを見れば判るように、これは「4ビットガムラン」であって、 その部分にこそこの作品の持つ独特の時間性が存するのだ。色々な要因の複合だろうが、総じてその時間性の片鱗を感じさせるに留まり、 充分に展開されない憾みがあったのは遺憾であった。
従って、このコンサートの結果に限っていえば、私が受けた印象は必ずしも肯定的とは言い難い部分が多かったものの、三輪さんに こうした作品、「個展」において、あえて西欧音楽のためのコンサートホールでの上演をプログラムするような作品を委嘱し、(私自身はこれ以前には わずかに一度立ち会っただけだが)色々な場所で、数多くの演奏を繰り返すことによって、その作品の価値を闡明してきたという事実は確認して おくべきだろう。初演である「永遠の光・・」は当然だが、「村松ギヤエンジンによるボレロ」すら再演の機会になかなか恵まれないことを思えば、 西陽子さんの「蝉の法」と並んで、マルガサリの活動は際立っているように見える。そうしたことを思えば、マルガサリがこの「個展」において登場するのも 全く違和感はないだけに一層、その真価を充分に示し切れなかったように感じられたのは残念である。
繰り返しになるが、西欧音楽のコンサートホールで全く異なった歴史と伝統を有する芸能が上演されること自体、すでにその芸能にとって ハンディキャップがあるとは言えるだろう。だがしかし、当日配られた冊子の巻末の作品表では「マルガサリのための」と、あたかも作品委嘱による 演奏権の独占を示唆するような記述もあり、事実上も独占的に演奏をしている訳で、結果としても「手の内に入った」作品であることを思えば、 更に繰り返して演奏が行われることを期待したい。作品演奏の権利関係については詳らかにしないが、個人的には他のガムラン・アンサンブルの レパートリーとしても取り上げられることが望ましいと思うが、それが叶わないのであれば、なお一層、マルガサリに期待するところは大きい。 寧ろそこには作品演奏の伝統確立と継承の「責任」の如きものすらあるように私には感じられる。技術的な洗練、解釈の徹底や様式の確立といった 点もそれに付随するのはある意味で当然のことだろう。
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プログラムの棹尾を飾るのは、委嘱新作「永遠の光・・」"Lux aeterna luceat eis, Machina"である。CDプレーヤーのようなオーディオ機器を 用いるのは三輪さんの作品の中では決して珍しいことではなく、思いつくだけでも「歌え、そしてパチャママに祈れ」や「再現芸術における幽霊、 またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための、新しい時代」などがある。もっとも機器がいわば「受け持つ」音響も、結果として担うことに なる機能も作品毎に全く異なり、共通しているのは、今回の場合であればそれ自体が一つのメディアであるホール自体とは別の、 異なった音響空間を穿つという効果にあるのだと推測される。今回の"Lux aeterna luceat eis, Machina"の場合には、その効果は些かグロテスクに 感じられるまでに拡張され、作品のほぼ半分では単調なリズムパターン(ただし3:4のボリリズムも含まれるが)を反復する調律されない打楽器以外の管弦楽は 沈黙を保ち、CDプレーヤーが再生する自動音声合成による基本音列の「歌唱」がサウンドサンプラーによりシミュレートされたオーケストラの演奏の音響による スコアの再現に遷移し、その後しばらくはCDプレーヤーが再生する「擬似オーケストラ」の演奏の再生を延々と聴かされることになる。
サンプリングされた音と人間の演奏するアコースティックな楽器のリアルタイムな合奏という点では「東の唄」が思い浮かぶが、 「東の唄」のような機械と人間との間のインタラクションはここでは排除されている。指揮者も打楽器奏者も、現実にはCDから再生される 音響に「合わせ」ざるを得ない。まさに"Lux aeterna luceat eis, Machina"の題名で典礼文の"Domine"に替わって呼格で呼びかけられるに相応しく、 人間は機械に従属するという意味で演奏「主体」であるに過ぎない(西欧語のSubjectの語源を思い浮かべて頂いてもいいだろう)。その機械はだが、 恰もその場を支配するかのようにホールと一体化せず、CDプレーヤーとしてそこに存在し(そのことで実は仮構かも知れない「不在」を構成的に指示し)、 音はそこから「再現」されていることが明示される。 ヴェーベルンを彷彿とさせるような(だが実際には恐らく人間には歌唱不能な)跳躍音程を歌いこなすのは自動音声合成という機械だし、 サンプリングされた音響によってスコアを再現するのもまた機械であり、しかもそれらの機械そのものがそこでリアルタイムに演奏するのですらなく、 CDプレーヤーで再現されるのである。
勿論CDプレーヤーによる再生は、演奏を容易にする(通常のオーケストラで打楽器奏者の一人がCDプレーヤーを 操作しさえすれば、この曲は普通のオーケストラで演奏可能な「編成」で、特殊な機器もそれを操作するエンジニアも必要とされていない)ための 手段であっても構わない。その一方で、この演奏を更に「録音」することの「意味」は、現代音楽では珍しくないテープとオーケストラのための音楽の 場合とすら単純に同一視できないことには留意すべきだろう。(もちろん「事後的に」「結果として」生じるのは同じことの場合もあろう。だが、ここでは CDプレーヤーの使用は最早代替手段ではなく、いわば(通常)代替手段(であるべきもの)自体の、現場での(「生」の)利用が意図されているという、 いわば「脱構築的」とでも言うべき状況が生じているのだから、やはり違いは残るのだ。CDプレーヤーによる再生が生演奏の代理ではないのに対応するように、 自動音声合成の歌唱も、サウンドサンプラーによりシミュレートされたオーケストラの音響も代理ではない。CDプレーヤーの穿つ音響の場は、 どこにも通じてはいない。それらは何の模倣でもない。否、作品の構造をなす単旋律自体、コンピュータが生成したものであり、だから寧ろ模倣するのは 人間による「本物」であった筈の管弦楽の方なのだ。)
この作品は「村松ギヤエンジンによるボレロ」やフォルマント兄弟名義による近作、Neo都々逸の系列の作品(そのうちの一つが、 冒頭で「歌う」合成音声による作品であり、サントリーホールの小ホールで昨年演奏された「せんだいドドンパ節」である)と同じように、オクターブを 17に分割したスケールに基づき、新調性主義の先行作「虹機械」や「七つの照射」と同様に、コンピュータが初期値に従って 生成した音の連なりが描く軌道を予め記譜しておき、それを人間が演奏していくというタイプの作品の3つ目ということになる。17音平均律から 実際の演奏で用いられる通常の12音平均律への変換に伴い、今回の作品の媒体であるオーケストラが可能にするもう一つの次元、音色の次元が追加され、 元のスケールでの差異は音程と音色の組み合わせに移されることになる。
こう書けば如何にも恣意的な 操作に感じられるかも知れないが、Neo都々逸の系列の作品における17音平均律が、コブシのようなピッチの揺れをキーボードによるリアルタイムな 音声合成において実現する手段であったことや、音色というのは結局のところ幾つかの音程の合成の効果であることを考えれば、いわば色の滲みに よって音程のニュアンスを表すという発想はそんなに恣意的なものとも言えないだろう。だがそれよりも、基本的には離散力学系の軌道である単旋律を ベースとする新調性主義で管弦楽作品を作るという課題に対する解答として、このような方法によって音色の次元を確保しつつ、並行して 取り組んできた「再現芸術における幽霊」の問題系との接木を行うのは鮮やかという他ない。
ちなみにこの作品においては、特に最近は主として フォルマント兄弟名義での作品が手探りしながらも、必ずしも明確に捕まえることに成功しているように私には思えなかった「幽霊」の問題が持つ 錯綜と重層に対して、鮮明な断面を示すことに成功しているように感じられたことを特に記録しておきたい。だが、その様相を分析することが コンサートの感想の枠ですることは到底叶わないのは明らかである以上、ここではその内容についての記述はしないでおくことにする。
だが一方で、それでは「中部電力芸術宣言」との関係を記したプログラムノートや"Lux aeterna luceat eis, Machina"という標題は、そうした作品の構造と どういう関係にあるのだろうか。その作曲法からしても(そしてプレトークで本人が述べていたように)、この音楽は追悼の感情の表現ではないし、 何か宗教的な情緒を聴き手に喚起することを意図してもいない。では"Lux aeterna luceat eis, Machina"という題名はいわば外側から押し付けられた 恣意的なものであり、作品の内実との実質的な結びつきもなく、関連は偶然的なものに過ぎないのだろうか。 こうした問いに対して一般性のある解答が そもそも可能であるか、私には判断しようがないが、個人的な事実を証言すれば、私にとっては決してそんなことはなかったと確信を持って言うことができる。
否、方法はポテンシャルの場を、その地形を制約する条件を与えるが、同時にそこには大きな自由度が残されている。それは西欧音楽の伝統的な技法でも 十二音技法でも、クセナキスの統計音楽でも起きたことで、その場においてどのようなものを創りあげるか、何を提示するかが個別の作曲において問われている という事情は構造的にはここでも変わることはない。勿論、方法の制約は取るに足らないものではない。ここでは方法論的な前提として、音響による 自己表現、何らかのメッセージの構成、物語の語りであることは断念されている。だからそうしたものを音楽に求める聴き手にとって、この作品を含めた 三輪さんの作品の価値が、通常コンサートホールで演奏される作品(いわゆる「現代音楽」も含めて)の多くと前提を共有しないが故に、極めて疑わしいものに 映るのはある意味では仕方が無いことである。 私自身以前に三輪さんの作品が常に生成途上であるかのような、完成を拒絶するかのような印象を記した ことがあるが、そもそもここでは伝統的な意味合いでの作品の出来栄え、「完成度」は問題にならないのではないか。 寧ろここで目指されているのは 新しいタイプの出来事が出現する(抽象的な意味での)空間をデザインすること、ある物語を選択して現実化することではなく、仮説的なものも含めた 物理学的、化学的、生物学的、社会学的過程を支える数学的構造とそのダイナミズムが直接展開できるような場を設定し、そこにおいて無数の物語が 生成しうるような仮想的な場を用意することなのではないか。そこで生じるのは既存の存在の分類からすれば、或る種の畸形と見做されるかも知れない もの、だが寧ろ生物学的な比喩を導入して「異型発生」と呼ぶのが相応しい出来事なのだ。勿論、個別に生じた結果(それは作品そのものかも知れないし、 その作品の演奏かも知れないし、その作品の享受かも知れない)は単なる行き止まり、崩壊に終わることもあるだろうし、或る種の閉塞と排除、自己疎外に 終始するリスクを否定することはできない。だが、それだからこそ「芸術」が、それを支える想像力が必要とされるのであり、窒息状態にある現実からの恢復のために 「芸術」が力を持つと言い得るのではないか。
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他の新調性主義の作品がそうであるように、この作品も演奏者に対する技巧的な要求の大きさは法外なものである。途中1曲挟んではいるものの、 「村松ギヤエンジンによるボレロ」においては、遷移するリズムパターンを刻み続け、「永遠の光・・」では他の楽器が沈黙する中、唯一CDプレーヤーが 再生する音響に併せてリズムを刻み続けなくてはならない打楽器奏者もそうだし、前者では普段弾き慣れている12音平均律とは異なる、18音平均律で しかもパート譜においてはグリサンドの相対的な移動方向しか示されていないという条件下での演奏を強いられ、後者では演奏時間の半分を、ステージに 居ながらにして演奏することを禁じられ、演奏する段になれば(まるでガムランのように)単旋律を構成する音の断片をひたすらピチカートで弾くことを 強いられる弦楽器群の奏者もそうであるし、後者の後半部分において今度は単旋律をほぼそのまま演奏するという、こちらは西欧的な名人芸が 求められるマリンバの奏者も別の意味でそうであろう。しかも演奏すべき音は情緒的なものからは遠く、感情表現は禁じられている。否、単純に音響的な 側面に限定しても、近代的な管弦楽の持つ響きの豊かさは禁じられてしまっている。それでいて 通常の基準からすればまさに「メカニカル」な部分のみを要求されるような作品の演奏に対して懐疑的であったり、拒絶があったりということがあっても不思議はない。 実際、「村松ギヤエンジンによるボレロ」の海外における演奏ではそうしたことが繰り返し起きているのだ。
その中で野平さんの指揮する東京都交響楽団の演奏は、楽譜の要求に対して誠実であるだけでなく、実現された音響としての質も 非常に高く、作品の姿を正しく示したものであったと感じられた。私の怠慢もあり機会は限られているものの、野平さんの作品の質の高さに実演に接して 感銘を受けた経験があり、更にピアニストとしては、徹底した分析による作品の構造の把握に裏付けられた解釈と、それをリアライズする技巧の卓越の 両方が記録されたピアノ伴奏版のマーラーの「大地の歌」のあの奇跡的ともいうべき名演の録音を知っていることもあり、更には「村松ギヤエンジンによるボレロ」の 芥川作曲賞時の審査をされた経緯もあって、作品の姿を的確に提示してくださるであろうと予想はしていたのだが、実際、「村松ギヤエンジンによるボレロ」は 勿論、初演であるはずの「永遠の光・・」ですら、手の裡に収めたかのような極めて安定感のある演奏が行われたのは驚異的ですらあった。(これは演奏において 細かい傷がなかったことを意味しない。だが、ここで意図されているのは「別の身体」の構成なのだから、そうした傷は作品のマクロな構造を破壊するような 事故でなければ大きな問題にはなりえない。)新調性主義が要求している演奏者の技術の卓越に見事に応えた演奏者の方々に敬意を表したい。
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私は自分が見出したものが一般的であるとして他者に押し付けるつもりは全く無い。だが、その一方で自分が見出したものに自分が見出す価値について 外的な判断基準との妥協をするつもりもない。40分近くにわたる単旋律の展開に退屈し、作品としての出来に否定的な判断を下す人がいるであろうことは 予想できるし、それを一概に否定しようとも思わないが、私はこの作品の初演に立ち会って、或る種の「感動」を覚えたこともまた否定することができない。 それは情緒的なものではないし、通常のコンサートピースから受ける感動とは明らかに異なった質のものであるけれど、やはり或る種の感動と名指すほかない ものでもある。
私が自分の経験を一般化することに躊躇を覚えるのは、実のところ、このコンサートを聴いて私が最も強く感じたのが、プライヴェートな水準での カタルシスであったかも知れないという疑いを振り切れないからだ。東日本大震災の経験(それはあの日とそれに続く数日の非日常的な状況に限定される ものではない。少なくとも私個人にとってはその「効果」は未だ続いている)によって、否応無く私が直面することになった様々な事態と、それに対する自分の 反応の或る種の組み換えのプロセス、いつ終わるとも知れない移行の最中にあって、三輪さんの活動は自分にとって大きな支えであった。勿論、私は芸術とは 無縁の世界で自分の時間のほとんどを費やす生活を送っているのだが、にも関わらず、分野の壁を掻い潜るようにして、ある隠れた次元において三輪さんの活動が 自分が抱えている問題と極めて近いところにあることを感じずにはいられなかった。半年の時間の経過ののち、まるで反復するかのように今度は台風により 大きくリズムを狂わされることにもなった。このコンサートもまた、その混乱の後遺症が残った状態で経験せざるを得なかったのだが、そうした状況下で初演に 立ち会うことのできた作品は、ややもすれば失速し、その結果として逸れがちな私の軌道を補正する力を持っていたように感じられたのだ。
プログラムノートの 末尾で三輪さんが「永遠の光」について述べていることに私は同意するが、それとは別の位相で、私は音楽の持つ「光」を、力を感じずにはいられない。 それを「救済」と呼ぶのは最早適切ではないかも知れないが、少なくとも立ち尽くし、その場に蹲ってしまうことなく、生き延びるための何かであるのは間違いない。 それは絶望を糧とした、それ自体絶望的な「反逆」するための力、あてどのない怒りの感情に近いものなのかも知れない。以前に私は、三輪さんに関する 文章の中で、まだ「反逆」は許されているのではないかと書いた。3.11.の後で私はそれに対する確信を喪いかかりつつも、それにしがみつくように生きてきたし、 今後もそうしていくのだと思う。そしてそうした文脈の中で、このコンサートによって確認したのは、私がどうなるかはおくとして、今なお私がいる相空間において 「反逆」は、3.11を経てなおまだ可能であることだ。まだ現実は干上がっていない。想像力、あるいはカントにおいては構想力と訳されることもある能力は 自分が属する空間においてまだ生きているし、二院制の心の奥の部屋が恐らくメビウスの環的に通じている外部からの他者の声はまだ響いている。 だからまだ私は応答を続けなければならない。それが不完全なものであったとしても自分に可能な限り。このようにして。(2011.10.9-10,11加筆修正)
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